52185dfb.JPGあらかわ交通ノートの第3話目として,今日の話題は作者にとってなじみの非常に深い場所の話題。作者は,葛飾区にある京成線の青砥駅での撮影をよく行う。北総線の7000系の最後の乗車などもこの駅から行った。
この青砥には「青戸」と「青戸」の二つの名称がある。駅名は「青砥」であるが,地名は「青戸」になっている。後者は慈恵医大病院や都営バスの車庫にも使われている。いずれも「あおと」と読む。今回は,あおとの地名考察を行う。

青砥の幕(1)列車の行き先表示や駅に関しては「青砥」を使用する。この青砥は,青戸駅の北から歩いて10数分の所にある現在は御殿山公園(葛西城址公園)となっている葛西城を本拠とした青砥藤綱公に関してで,それに由来して青砥の地名を使っている。この葛西城は,中川の微高地を利用した城で,なぜ低湿地のこの辺りに城があるのかといえば理由はここにある。

青戸の地名として・・・地名の青戸は,この辺りが大津と呼ばれる港町であった。かつては青戸と亀有は亀青村に所属しており,もともと字はどうあれ,「あおと」と呼ばれていた。「あおと」という地名が明確になるのは,1928年の京成線が青砥駅の設置だった。この京成線は,帝釈天からの輸送目的に押上から江戸川までの路線として運行をしていた。その京成線が二つ目のターミナルとして上野へ分かれる路線への建設時に青砥駅が設置された。ただし仮の地名は,本田中原(ほんでんなかはら)という地名で,現在の青砥駅のある青戸1・2・3丁目や立石6丁目は,本田中原と呼ばれていた。(実際にこの辺りの町会で本田中原町会がある)この葛西城の藤綱公にちなんで青砥という駅が生まれた。しかし,この青砥では読みにくいので,青戸という当て字的な地名になった。そして,地名としての青戸は,砥ではなく戸が使われることになった。

青戸4番線からの撮影京成線青砥駅は,上野方面の2番線と4番線は,急カーブを経て,駅に入る(駅を出る)のに対して,押上・浅草線方面の1番線と3番線は,真っ直ぐに,駅に入る(駅を出る)。これは,先の京成線の分岐点としての当駅の位置づけを表しているのではないか。つまり,1・3番線の押上・浅草線方面が本線で,2・4番線の上野方面は,支線であったからだ。ここも昔は,平面で捌いていたが,1980年代に完成した高架工事で,それがよりはっきりした点がある。

青戸3番線この写真は,青砥駅3番線からの列車で,上は4番線からの列車だ。

このあおと考察ですが,今ある資料で限られているので,また後日詳細を調べ,再度公表しようかと思います。幣ブログでは,地域としての「青戸」と一体化させるために,基本的には「青戸」の表記をしています。

青戸シリーズ
2007年9月4日分「青戸駅今昔物語」
2007年10月10日分「地図で見る青戸駅の謎」